大学入試の戦後史 第2回

2018.08.20

高等教育急拡大の副作用である学生運動は、東大紛争を頂点としてやがて終息に向かう。古めかしい安田講堂に代わって登場するのは、筑波大学、中央大学などの新しく明るい郊外大学の校舎群だった。

1968 年 東大紛争始まる

ベートーヴェンと東京大学の写真、および、「へん、ベートーヴェンなんかききながら、学問しやがって。」というテキスト

1月の研修医問題に端を発した東大紛争は6月に安田講堂が占拠され、東大全共闘が結成された。東大のみならず全国の国・公・私立大学で封鎖やストライキが行われた。それぞれの大学がそれぞれの「問題」によって紛争となったが、背景には、大学の大衆化があった。大学の規模拡大による教育環境の悪化に対する抗議である。また、エリートであるはずの大学生が今やエリートではない、ということに気づいた学生たちの反乱でもあったことを象徴するエピソードとして竹内洋氏が伝えるのが、上記の罵声である。この年の大学進学率は13.8%、マーチン・トロウの言う、高等教育の「エリート型」から「マス型」への移行期である。

補注

研修医問題

戦後の医療実習生の扱いをめぐる諸問題でインターン制度の廃止に繋がった。
当時のインターン制度は大学医学部を卒業後医師国家試験の受験資格を得るために実習を受けさせる制度で、実習期間中は学生でも医師でもない無資格状態であることが問題視された。また労働環境も劣悪であったうえ無給での労働を強いられていた。
現在の研修医制度は医師・歯科医師免許取得後、厚生労働省の規定で臨床研修医として前期2年間の研修を受けさせるというもの。

東大紛争

1968年から1969年にかけて東京大学であった一連の学生運動。
東京大学医学部はインターン制度廃止・待遇改善運動の中心的存在で1968年1月には医学部が無期限ストライキに突入したことを端緒に、以後医学部生の処分問題、学生運動を組織する団体同士の主導権争い、「東大安田講堂事件」「1969年度東大入試中止」などいくつかの事件が複合し、当時の大学紛争の中でも大きな問題となった。

「大学(学部)への進学率」のグラフ

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1969 年 東大入試の中止

安田講堂封鎖のイメージ写真と「大学の本質的条件や、社会公共的使命を逸脱してまでも、東大を維持してゆく必要は毛頭ない。入試中止や留年も辞すべきではない。」というテキスト

安田講堂の封鎖解除をして入試を実施したい加藤一郎東大総長代行は、旧制成城高校で一年上の先輩だった坂田道太文部相に機動隊導入の望みをつないでいた。が、1月16日の毎日新聞「読者の広場」はたった一人の長文の投書でその全スペースが埋められた。「東大問題の解決について/衆議院議員、拓大総長、中曽根康弘」である。すでに政府・自民党の方針は固まりつつあった。機動隊導入(1月18日)の翌日の新聞は「東大“無法地帯”」、「被害3億円」(実際は4億5千万円)、「国民の怒り」などと書いた。管理能力欠如の大学人と暴徒化した学生に対して外からの眼は厳しかった。東大と、同じく入試中止となった東京教育大学の入学定員3900人は他の国立大学に振り替えられることになったが、それも多くの大学の拒否にあった。受験生は踏ん切りをつけて、京大、一橋、東工大などに志望変更し、2月1日からの出願に備えた。

補注

東大安田講堂事件

1968年6月15日、医学部生の一部が安田講堂を占拠したため当時の大河内東大総長が警視庁機動隊を学内に導入したが、これが学生の反発を招き以降複数の建物の封鎖や学生によるストライキが続き、11月には総長以下全学部の学部長が辞任に追い込まれた。年明けの1969年1月16日加藤総長代行は事態打開のため警視庁に機動隊の出動を要請し、導入された機動隊と学生による1月18・19日の二日間の攻防の末、安田講堂を占拠していた学生たちはすべて機動隊に排除された。以降東大紛争は終息に向かい東大全共闘も勢力を減退させることになった。

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1970 年 秋田大学医学部の開学

秋田大学の写真、および、「県主脳部は、毎年東北大、新潟大、弘前大および岩手医大に”お百度”を踏んで医師派遣を要請し、無医村の村長の仕事は診療所の医師を探すことにつきたといわれた。」というテキスト

太平洋戦争中に設置された秋田県立女子医学専門学校は、新制大学医学部の基準に達していないため廃校になってしまった。医学部新設はそれ以来の県民の悲願だった。医師確保に苦労した県が医学部誘致に動き出したのは1966年ころからであったが、時悪しく学生運動が盛んになり、その発生源が医学部であるケースが多く、政府は医学部新設に消極的だった。しかし粘り強い陳情と、63億円の拠出(県が土地造成・諸施設建設をしてこれを国に寄付するという形式をとった)により、「特例」として医学部新設にこぎつけたのであった。
ところがやがて「無医大県解消」は政府の政策に取り込まれて「特例」は「先例」となり、1973年の3大学(旭川、山形、愛媛)設置から始まって1981年の琉球大学まで、16の国立医学部が設置されたのである。

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1974 年 筑波大学の開学

鉄道のイメージ写真、および、「いろいろな匂いがこもる常磐線に乗り込み、いつ到着するのか見当がつかない土浦からのバスに揺られて大学西のバス停に降り立ったとき迎えてくれたのは、杭打ちのドーンという音であった。」というテキスト

都内3箇所に分散するキャンパスの統合のための東京教育大学の郊外移転計画は、大学紛争期を潜り抜けた時には「新構想大学」の新設計となっていた。最強のブランドである大学名まで捨て去った新大学の特色である、教育と研究の分離、管理運営の一元化は、その後行われた大学院重点化や国立大学法人化の先駆とも見える。推薦入学の実施も筑波大学が国立では初めてだった。番号で呼称される学群はいかにも「新構想的」であり、「郊外的」であった。ただし現在は改組されて番号学群はなくなった。「いつ到着するのか見当がつかないバス」は現在では「つくばエクスプレス」に代わった。

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1978 年 中央大学の八王子移転

中央大学の写真、および、「この猫額の地(駿河台)から広大な多摩校舎への移転は未知への遭遇に似た不安と『草の緑』に包まれたキャンパスへの期待や夢がこめられていた。」というテキスト

入学志願者は増え続けるのに、工場等制限法と文部省の「高等教育の計画的整備」によって東京23区内では大学の拡張は不可能な時代、多くの大学が郊外移転をした。その最も象徴的なのが中央大学文系4学部の八王子移転だった。当初は一般教育課程だけの移転を計画していたが全学年の移転となった。現在、工場等制限法は廃止され、大学の都心回帰が進行している。中央大学は中長期事業計画「Chuo Vision 2025」で2022年までに後楽園キャンパスを整備して法学部を八王子から移転する予定である。

補注

工場等制限法

人工・産業の過度の集中を防ぐ目的で都市部に設けられた制限区域において、工場の設置は地域により500〜1,500㎡、大学の新増設は1,500㎡までなどの制限を課した法律。「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」と「近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律」の総称であって東京を中心とする首都圏と京阪神エリアが対象。

高等教育の計画的整備

(昭和50年代計画)収容力等の面での地域間格差を是正するため、大都市(工業(場)等制限区域及びその他の政令指定都市の区域)への大学等の新増設を抑制し、地方における整備を中心に実施。
中央教育審議会2001/11/7議事録 将来構想部会関係基礎資料「大学等の設置に係る制限及び抑制方針について」より

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1979 年 共通第1次学力試験始まる

センター試験のイメージ画像、および、「入学志願者の高等学校段階における一般的・基礎的な学習の達成度を全国共通の試験問題による共通第一次学力試験によって客観的に評価し、各大学が実施する第二次の学力検査等の成績と調査書の内容を合理的に総合して、志願者の能力・適性等をより多面的かつ綿密に判定しようとするものである。」というテキスト

現在のセンター試験の前身の共通第一次学力試験は1979年1月13日、14日にその第1回が実施された。国公立大学志願者34万人が受験したのは5教科7科目のセット。これは実は東大の一次試験を原型とするものだった。またこの年の入試から、30年間続いてきた国立大学のⅠ期・Ⅱ期の期別は廃止された。つまり、受験生にとっては今までの2回の受験機会が1回になった。5教科7科目という「重い負担」と1回受験については、80年代半ばに受験生でも高校でもなく、大学が「問題化」する。

大学入試の戦後史 年表1966年~1979年

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