大学入試の戦後史 第3回

2018.10.26

共通一次試験を軸にした国公立大学の入試制度は80年代半ばには綻びが出てきた。私立大学では志願者が増え続ける一方で、国立大学は定員割れさえ危惧される。そこに臨時教育審議会という「外圧」があって国立大学は入試制度改革へと追い込まれた。しかし導入された新制度は、受験生も大学も混乱に陥れるものだった。

1983年 信州大学のユニーク入試

減少に悩む人のイメージ画像、および、「だが、そういう一時的原因による志望者の激減だけでなく、その根底に国立離れ、とりわけ地方国立大学の地盤沈下のあることを分析データは冷酷に告知している。」というテキスト

志願者減と手続き率の低下について、信州大学経済学部はこのように分析した。その対応策として実施された入試改革が「ユニーク入試」だった。共通一次得点にかかわらずニ次試験1科目だけでも、あるいはニ次成績にかかわらず共通一次得点だけでも合格可能というもの。初年度は合格者の2割がこの基準で合格した。実はこの「ユニーク入試」はすでに他のある国立大学経済学部でおこなっていたものである。積極的に広報したために大きな反響を呼んだ。

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1984年① 地方国公立大学は倍率低下に悩む

チェスと将棋のイメージ写真、および「全国一律の教科・科目での共通一次試験といい、第二次試験日統一といい、現行制度はまるで国内企業だけでカルテルを結び、海外企業との競争に負けつつあるようなものである。」というテキスト

倍率低下は信州大学経済学部だけの悩みではなかった。共通一次初年度(1979年)から疑念が呈されていた科目数と受験回数が問題化されてきたことを示すのが上の文章。なお「国内企業」とは国立大学、「海外企業」とは私立大学のことを指している。

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1984年② 臨時教育審議会が発足

廃校舎の写真、および「いわゆる教育荒廃というものは、平等が不足しているからではなく、自由が不足し、個性が尊重されていないからです。」というテキスト

臨時教育審議会は中曽根首相直属の機関として発足し、個性重視・自由重視の視点から多くの提言をした。大学入試については、偏差値依存からの脱却として国立大学の複数受験や、共通一次に代わる「新テスト」(答申文の中では「共通テスト」)の実施が提言された。これが「教育荒廃」の解決とどうつながるのかは理解しがたいところがあるが、とにかく画一性を嫌うポストモダニズムと「Japan as No.1」の高揚感溢れる時代だった。しかもこの提言は前項の地方国立大学の「要望」と驚くほど一致していた。

補注

ポストモダニズム

もともとは建築・デザイン分野の言葉で機能性・合理性を重視し画一化したモダニズム建築の後(=post)に訪れた、画一性を排し装飾性や多様性などいわゆる「個性」を重視する建築・デザインの主義を指していた。日本の建築分野では以下に述べる「Japan as Number One」の時代と重なり、社会全体の高揚感と相まって、建築分野にとどまらず新しい時代を象徴する言葉として様々な分野で広く使われた。

Japan as No.1

アメリカ・ハーバード大学の社会学者エズラ・ヴォーゲルの1979年の著書「Japan as Number 1(原題)」のこと。日本企業の形態・成長性、官僚の役割、教育と日本人の特性など多岐に渡る項目を分析し高評価を与え、黄金期といわれる80年代日本経済の高度成長を予見したとされる書。単に著作名ではなく成長期を象徴する言葉、活性化する言葉として日本国内で広く使用されていた。

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1987年 国公立大学複数受験

手のひらから消えていくキューブのイメージ写真、および「素直にいえば分かれたくないのだが旧帝大が動かないと複数受験化がスタートしないから。」というテキスト

国立大学入試についての臨教審の提言は即座に実施に移された。センター試験移行に先駆けて科目数の削減が実施され、複数受験についてもAグループとBグループに分かれて実施することになった。まず旧帝大がAとBに分かれることを決め、その後各大学が地区ごとに協議してグループが決定した。しかし京大法学部は「滝川事件以来の学部の自治を脅かす大問題だ」(高坂正堯・京都大学法学部教授)として東大(Bグループ)と異なるAグループとなることを拒絶、「AB分割」という変則実施となった。そして87年の国公立大学入試は大荒れとなった。各大学への出願を共通一次試験前(事前出願)としたため、第1段階選抜で不合格がのべ10万人にのぼった。A・B両方の結果が出てから入学校を選べるようにしたため、入学手続き者が定員に満たない大学が続出、全大学で1万人の欠員となり、各大学は繰り上げ合格作業に追われた。

補注

滝川事件(京大事件ともいう)

1933年5月京都帝国大学法学部の滝川幸辰(たきがわゆきとき)教授が、同大法学部教授会や総長の反対にも関わらず、文部省に一方的に休職処分とされた事件。
背景として、前年の「司法官赤化事件」という共産主義活動に関与したとされる判事らが処罰された事件からの、司法の養成・教育現場(=法学部)に対する不信があり、司法試験の委員でもある瀧川教授が前年に行った講演内容や著書「刑法読本」が無政府主義・反社会的内容とされたことが処罰の対象となった。
大学側の反対を押し切って出された処分が「大学自治を脅かす問題」とされ、抗議のため法学部全教官が辞表を提出する事態に至った。

大学入試の戦後史 年表1980年~1987年

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