大学入試の戦後史 第1回

2018.06.20

戦前は高等教育機関への進学率は5%程度。少数のエリートのためだけの高等教育は戦後の新教育制度で爆発的に拡大した。その始動期15年間に生起したことを概観しよう。

1949 年 新制大学がスタート

教室の写真

新制度による大学は、1948、49年にスタートした。国立68校、公立18校、私立92校でのスタートだった。
新制国立大学は、旧制度の、帝国大学、(旧制)大学、高等師範学校、(旧制)高等学校、(旧制)専門学校、師範学校を統合したもので、各県1校の国立大学が設置された。ただし、北海道、東京都、愛知県、京都府、大阪府、福岡県のみは例外的に複数大学の設置が認められた。
帝国大学は旧制高校以外の他種学校を統合することを避けたため、上記の都府県には教育、工業等の単科国立大学が生まれたのである。
教育レベルの異なる種類の学校を一纏めにしてスタートした国公私立の新制大学は、戦前を知る者には大学教育の下方拡大、希釈と見えただろう。上記の矢内原、佐々木は素直にそれを表明している。 しかし、高等教育の希釈こそが、一握りの選良のための高等教育が、多数の中間層(大衆)にもアクセス可能なものに変容する条件だったのだ。

ページのトップへ

1954 年 高校進学率50%を超える

学校の写真

戦前の高等教育進学率が低かった要因の一つが「分岐型」の進学ルートだった。小学校を卒業したところから進路が分かれ、時間と費用がかかる高等教育へのルートの選択者はこの時点で絞り込まれてしまった。
戦後は「単線型」になった。大学進学の選択は高校卒業時までのモラトリアムが与えられた。
戦後の復興・再建による国民経済の回復と、産業構造の変化に促され、上級学校への進学熱はヒートアップされていく。60年代になるといわゆる「団塊の世代」が高校へ進学する。

文部科学省ホームページより:学校系統図 第6図 大正8年
文部科学省ホームページより:学校系統図 第7図 昭和19年

ページのトップへ

1960 年 60年安保

東京大学の写真

日米安保改定反対運動は1959年から盛り上がりをみせていたが60年5月19日深夜の衆議院での可決の後には、それまで学生運動には無関心だった学生までも巻き込んでいく。
6月15日に東大女子学生が死亡したその翌日の茅総長の告示は、義憤にかられて立ち上がった学生への理解を示しているともとれる内容だった。60年安保の学生運動は、国会や首相官邸など「学外活動」中心だった。学生は学生服でデモに参加した。

補注

団塊の世代

厚生労働省の厚生労働白書によれば1947(昭和22)年~1949(昭和24)年に生まれた人。
第二次世界大戦(太平洋戦争)の終結により平穏な生活が戻ったこと、また戦地に赴任していた男性が相次いで帰還したことで第一次ベビーブームと呼ばれる出産ラッシュが全国規模で起こり、この世代を描いた小説のタイトルから世代の総称として使われだしたのが「団塊の世代」。
単に出生時期の事だけではなく、戦前の国家主義的体制や凄惨な戦争体験を知らず、戦後復興の好景気や自由主義的教育の中で育った世代であるため文化的・思想的にそれまでの世代と大きく異なると言われる。

日米安全保障条約改定反対運動(安保、安保闘争、安保運動)

日米安全保障条約=日本と連合国との戦争の終結と日本の主権回復が承認された1951年のサンフランシスコ平和(講和)条約締結の際、同時にアメリカとの間で結ばれた二国間の安全保障条約。これにより日本から各連合国が撤退する中、アメリカのみが駐留することになった。1960年には改定された新安保条約が発効された。

日米安全保障条約改定反対運動=上記の60年改定・新安保成立に反対し全国各地において起こった運動。特に一部の学生や労働者の過激な活動に焦点を当て取り上げられる事が多い。同条約をめぐる改定・反対運動は70年代にも起こっている。

学生運動=学生が行う社会的・政治思想的運動だが、日米安保改定反対運動の際の学生運動のイメージが強いためこれらを指して単に「学生運動」と言われることも多い。

新長期経済計画

1957年に岸信介内閣が打ち出した経済政策。
増加する就労者の完全雇用のための経済成長率の引き上げ、インフラ設備の計画的整備と拡大、変動の少ない経済計画などを骨子とした五カ年計画。

所得倍増計画(国民所得倍増計画)

1960年に池田勇人内閣が打ち出した経済政策。「国民総生産を10年以内に26兆円に倍増させる」ことをスローガンとしている。
内閣府の1998年度国民経済計算年次推移によれば国民総生産は1959年13兆8929億円→1960年16兆6620億円→1961年20兆1398億円、10年後の1970年には75兆1520億円と推移している。

ページのトップへ

1962 年 第1次大学新設ブーム

本と顕微鏡の写真

大学進学希望者の増大に対応したのは主に私立大学だった。
岸内閣の「新長期経済計画」と池田内閣の「所得倍増計画」による理工系学生増員政策に乗じて、私立の10大学は上記の声明文を出して増設増員の実力行使を宣言した。
文部省はこれを追認するかたちで認可申請を届出制にした。この規制緩和が理工系のみならず文系も含めて私立大学の拡大を促進した。
それまでの大学新設は年5校程度のペースであったのが62年からは毎年10校から20校が新設された。
69年までの7年間で122校が誕生し、また既設の大学でも多くの学部増設が行われ、私立大学在学者は100万人を突破した。わずか7年間で倍増という爆発的拡大である。
なお文部省が高等教育の計画的整備を実施するのは1976年からである。

ページのトップへ

1963 年 「能研テスト」始まる

テストの写真

この答申に基づき63年4月から実施されたのが財団法人能力開発研究所による「能研テスト」である。かつて1947年から55年まで実施された「進学適性検査」に続いて、国立大学統一テストの2回目の試みであった。
内容は学力テスト(5教科17科目)、進学適性能力テスト(「知的能力」の測定)、職業適応能力テストの3分野からなる。しかしテスト結果利用は任意であるため利用大学はごくわずか(国立は3校)で、69年にはひっそりと廃止された。

ページのトップへ

1965 年 私大の学費値上げが相次ぐ

本とお金の写真

私立大学の規模の拡大についてはすでに述べたが、そのためには資金が必要である。これを学生から徴収するために、学費の値上げが相次いで実施された。一気に50%~100%の値上げもあった。
入学志願者の増加がこれを許したのかもしれないが、消費者物価の上昇をはるかに上回る値上げに学生たちはストライキで抗議した。
1965年の慶應に続いて、66年には早稲田、明治、68年には中央で値上げ反対のストライキがあった。
値上げのみならず大学運営方法に対するさまざまな異議がストライキという形で表明され、学生運動の最大の山場である1969年へと繋がっていく。

大学入試の戦後史 年表1949年~1965年

ページのトップへ

シェアする

代ゼミJOURNALのトップへもどる

ページトップボタン